2016年10月10日月曜日

悲しい夢

よく見る夢の一つに愛猫と一緒に旅館にいる、という夢があります。
猫は勝手に館内をうろつき回り、私はそれを探し回る・・・というのが定番ものでしたが、昨日見た夢はちょっとだけ毛色が違っていました。
女将さんと思しき人が私に向かって「もうお帰りですか? お連れの猫ちゃんはあちらにいますよ」と階段の方を指差します。
私が階段に向かって今は亡き愛猫の名前を呼びかけると、姿を現したのは予想していた明るい茶色の猫ではなく、黒っぽい色をした(今飼っている)猫だったのです。
で。
慌てて猫に対して謝りつつ名前を言い直している、という所で目が覚めました。

なんか、二重の意味でショックで辛くて・・・(この文を打ってるだけで涙が出てきちゃうくらいにショックだったんですよね。ほんと、意外なほどに)。

海外ドラマなどを見ていると愛する人を失ったもの同士で「お前は今、どの段階だ?」と尋ねるシーンがよくあります。
日本ではあまり聞きなれない言い回しですが、エリザベス・キューブラ・ロスが提唱した悲しみの5段階のことを指しています。米国ではドラマの中の日常会話の中で使われるほど一般的な指標になっているんだな〜、って見るたびにいつもぼんやりと思っていました。
来月で愛猫がこの世を去ってから2年が経とうとしていますが、私の悲しみの段階はと言うと、ようやく第二段階(ショック状態から醒めて喪失に気づく段階)に入ってきたくらいなのかもしれません。

愛猫を失った時には、喪失に関するレメディーやフラワーエッセンスをほぼほぼ義務的にとっていましたが、ほぼほぼ義務的だったからこそ、亡くなった日とその翌日くらいでとるのをやめてしまったんですよね、たぶん(正直、どのくらいレメディーをとったのかって覚えていないんです)。
自分が愛するものを失ったのだということを心からきちんと納得するまでとるべき(!)だったのかな〜。
今からでも喪失系のレメディーを再開するのがいいかもしれない、と思いつつ、なんだかレメディーを選ぶ気にもとる気にもなれないんですよね。
ちなみに『〜すべき』、って発想はレメディーで言うとKali系のレメディーがピッタンコだったりします、とか本筋とは外れたくだらないことはすぐ思い浮かぶんですけどね〜(たぶん、これも現実逃避の一環ですよね)。

愛猫を失って一ヶ月くらいで猫のいない生活に耐えられず、夫の勧めもあり新しく子猫を引き取りました。その後半年ちょっとでもう一匹を導入し、現在二匹の猫たちと暮らしていますが(今も一匹は私の隣で横になってます)、胸にはポッカリと大きな穴が開いたまま、なんですよね。

我が家に新しく来た子たちも勿論、相当に可愛いですが、でも亡くなった愛猫は私にとっては特別な存在なのです。

愛猫が逝って唯一良かったことと言えば、少しだけ、ほんの少しだけですが、自分の死が怖くなくなったかもしれない、ということです。
ペットを飼っている方には有名な「虹の橋」の話というのがあります。飼い主さんより先に逝った子たちは、飼い主さんが現世を去るのを虹の橋のたもとで待っているというという物語です。
自分が死んだのち、虹の橋のたもとで愛猫と再会できるなら、死ぬのもそんなに悪いものではないな、って半ば本気で思うようになりました。
ただ一つ、問題があるんですよね。
愛猫がまだ元気だった頃「先に逝っちゃったら私を待っていて欲しいけど、それは強制ではないよ。待ちたくなかったら待ってなくてもいいからね」って心にもないことを言っちゃったんですよね。
待ってなかったら相当にショックだよな〜、なんであんなこと言っちゃったんだろう、ってたまにバカみたいにクヨクヨする今日この頃。
・・・やっぱりレメディーを探した方がいいのかしら〜???


夢って不思議ですよね。

そそ。
ずーっと寝たきりだった父が亡くなってしばらくは夢の中でも病気だったり寝たきりだったりしたのですが、ある時期を境に元気な姿で夢の中に現れるようになりました。
最初にげんきな姿で現れた時は、目が覚めてからも幸せな気分が続きました。いま、夢に出てくる父はいつもとても元気です。
父に関していえば、悲しみの段階は全て終了したみたいです(話が長くなるのでアレですが、父の場合は長患いだったので父が生きている間に父の死に対する覚悟がある程度できていたと言うのも大きいんだろうなぁ、とは思います)。
猫と親と一緒にするなんて! と思う方もいらっしゃるかとは思いますが、私にとっては猫も父も比較できないほどに大事な存在です(あえて比較するとしたら断然、愛猫の方が大事。と言ったら、今は亡き父はもちろん、存命中の母や妹も怒るだろうなぁ・・・。いや、怒るもの忘れるほど呆れ果てられるのかしらん??)